光造形法の発明 (北口秀美)
要約
- はじめに
- 小玉の発明
- Herbertの研究
- 丸谷の研究開発
- Hullの光造形事業化
- 光造形技術の課題
- 特許
あとがき
要約
光造形の発明・特許という視点から、初期の四名のパイオニア
小玉秀男
Alan J. Herbert
丸谷洋二
Charles W. Hull
に焦点をあて調査した。
光造形の技術を公開した順番は
小玉(1981年)→Herbert(1982年)→丸谷(1984年)
→Hull(1984年?)
である。特許出願の順番は
小玉(1980年4月12日)→丸谷(1984年5月23日)
→Hull(1984年8月8日)
である。非公開の研究開始時期での順番は
Herbert(1978年)→小玉(1980年)→Hull(1982年)→丸谷(1983年)
である。
当初あまり情報が公に広がらず、日米でほぼ同時に独立して研究開発が開始された。いずれの研究者もその着想・将来性を第三者から認められずに苦労した状況が、この調査からうかがえる。最初に研究を開始した
HerbertのPlease be kind and gentle to new ideas.
というコメントが印象に残る。
1.はじめに
光硬化性樹脂(紫外線硬化液体樹脂など)を用いた光造形法は、型技術・デザイン・医療・マイクロマシンなど様々な分野に応用されている。日本では約10社がこの分野に参入し、課題はあるものの進歩している。米国では3Dシステムズがシェアの大部分を占めている。
ところで光造形の技術が日本人によって世界で初めて公開・実証されたということを知る人は少ないと思う。この技術は
半導体の生産技術
印刷技術
CAD技術
の3つの技術分野の統合から生まれた。研究者が他分野の技術を知ることが如何にパイオニア発明の種となったか、一つの参考事例となる。
2.小玉の発明
2.1 ひらめき
昭和52年、後に光造形法の発明者となる小玉は名古屋市工業研究所に就職する当初「中小企業はどうゆうことに苦労し、興味を持っているのかをまず知れ」という所長の意向で、企画課に配属された。
小玉はこの研究所で名古屋市の中小企業から派遣された実習生と共に、半導体の製作を体験する機会を得る。シリコンウエハーそのものは購入物品であるが、
拡散、マスクパターンの製作、露光などの一連の半導体製造過程はすべて実習出来る。トランジスタ−を製作し、その作動も確認した。
名古屋市工業研究所のホールで中小企業向けの加工機、コンピュータの展示会などがしばしば開催される。展示のうち小玉が特に興味を持ったのは、3次元
CADであった。非常に便利な方法であると感じた。しかし当時のCADは鳥瞰図しか画面に表示できなかった。CRTは平面なので、立体の表示手段として不
満を感じた。小玉は中学校時代から、六面図から実際の立体を想像することが得意でなかったのである。3次元CADの展示を見て、「設計された立体イメージ
を他人に分かりやすく伝える方法に工夫が望まれる。」という問題意識が芽生えていた。
昭和55年2月ごろ、名古屋市の吹上ホールで「印刷ショー」が開催された。この会場で初めて帝人の光硬化性樹脂に出合った。活字の部分が透明で他の部分
が不透明のマスク(写真のネガの様に白黒が反転されたマスク)の下に液体の光硬化性樹脂を置き、上から紫外線を照射すると、みごとな新聞の版下が出来上
がった。
帰り街を歩きながら、今日のショーのことと、半導体の製造で何回もマスクを変えて露光した実習のこと、それから潜在意識の中にあった3次元CAD出力の工夫への問題意識が突如融合した。
「あっ、そうだ!」
とひらめいたのである。
- 完成した新聞の版下を、液体の光硬化性樹脂に少し沈める。
- マスクを交換、再度露光する。
- この工程を多数回繰り返せば立体模型が出来る!
3次元CADで設計したものを、そのまま形に仕上げられる。
他人に見せられる。オペレーターが手で触って確認出来る!
小玉は、「まあ、せっかく発明したのやから、特許でもだしておこうか。」と考えた。実験をせずに特許出願をすることを考えたのである。名古屋市工業研究
所に特許公報がたくさんあり、特許も出願している。方式などの手続きを知っている担当者もいる。とにかく所内にあった特許公報を手本に、見よう見まねで特
許出願書類の原稿を作成した。手書きのままでも出願出来るが、和文タイプが研究所にあるのを思い出した。仕事が終わった後、雨の日にこつこつタイプした。
天気のよい日はテニスが日課になっていたのである。
昭和55年(1980)4月12日、光造形の発明が、世界で初めて特許出願[1]された。出願人・発明者は小玉秀男である。当時企画担当だった小玉は、業務外の発明だから職務発明でないと判断したのである。
2.2 小玉の特許法の知識
特許出願後しばらくしてから、光が上方から入射する場合に限定する「特許請求の範囲」の記載であることに気づいた。下方からの光の入射も権利範囲に入るように同年9月18日付けで手続補正書を特許庁に差し出した。(後にこの補正は要旨変更であったと小玉は語った。)
はじめての特許出願でも、「補正という手段を取れる。」という法知識を持ち合わせていたのである。その理由は以下の体験によっている。
小玉は名古屋大学の大学院修士課程時代に地球物理学を専攻し、ヒマラヤに2回(各半年)遠征している。名大・京大の共同研究である。ヒマラヤの遠征地
で、氷河や気象の観測を3時間毎に昼夜の区別なく毎日行った。若くても体力的に疲れる観測である。夜、観測した後は眠れるが、昼間は眠れない。このため
「理化学辞典」「我妻民法・全六巻」を読んだ。まだ時間が余ったので日本から「民事訴訟法」「刑事訴訟法」などを送ってもらった。なぜ法律の本を読んだの
かというと、当初学者になるつもりだったのである。この目的のために、『世の中のことを何もしらないまま、学者になるのも、あな話である。世の中、何がお
こるかわからない。基本的な「法」ぐらい知らないといけない。』と思ったのである。それゆえ民法ぐらいは読んでおこうと決めた。読んでいるうち法律という
ものは面白いと感じ初めていた。
理論の結果を確認しにくい地球物理学は自分には向かないと判断した小玉は、学部時代の応用物理を思いだし、実験して確かめられる「工学」を研究する名古
屋市工業研究所に就職した。研究所の企画部門で、課長の指示で内規作りをすることになる。ヒマラヤで読んだ本の法律知識が役立つのである。職務発明規程、
共同研究契約書の雛形、研究受託契約書の雛形などを作成した。職務発明規程のところを中心に、特許法全体も少し勉強した。特許請求の範囲の読み方、補正の
方法、特許法の理屈は理解出来ていた。
2.3 光造形の実験検証
昭和55年4月、研究職に転向してよいということになり電子部に移籍した。電子部では指示された「ハンダ付けの信頼性テスト」を研究する。もう一
つ自分で選んだ3次元CADの究極の出力「立体映像ディスプレイ」に魅せられ、調査研究を開始する。空間の任意の一点を光らせる技術開発である。2本の見
えない赤外線ビームの交差点を発光させるというアイデアが芽生え、図書館などでうまい方法、手段はないかと調査した。しかし一筋縄で解決するような課題で
なく、成果が出ない。そこですぐ出来る、自分が発明した「立体図形作成装置」を思い出し、この研究から始めようと決めた。
文献調査の後、所内の研究室をまわって当面使わない水銀灯(東芝製理化学用水銀灯SHL−100−UVZ)を借り、この水銀灯のカバ−を自宅にあった子
供のミルク空き缶を利用して作り、小さな手作りの実験装置を製作した。露光用の樹脂容器寸法は10cm×10cm×10cmである。感光性樹脂は、帝人か
らサンプルとしてテビスタ樹脂の提供を受けた。実験設備費はほとんどゼロであった。予備試験の後、最初に試作したのは思い出深いエベレストの山々であっ
た。10分毎に1層ずつ、マスク30枚を次々に交換して製作した。約6時間つきっきりの実験であった。製作中、薄黄色い透明樹脂の液体中に同色の固体の立
体が形成されるので、よく見えなかった。完成後引き上げると、見事にエベレストの山々が造形されていた。厚紙で作る立体地図模型の様な完成品であった。そ
の後も基礎データの収集に始まり、多くの試作実験を毎日繰り返した。実験室にこもりっきりであったのに、その夏はいつもより日焼けした。水銀灯の紫外線の
影響であった。
これで一応「出来る」という実証を得たので、昭和55年(1980)10月7日付けで実験成果を電気通信学会論文誌に投稿した。この論文は翌年の4月に論文誌[2]に掲載された。下図は論文誌に掲載された世界で最初の光造形による立体地図である。
続けて、下層より上層の方が張り出すオーバーハングの造形の基礎データの収集、なだらから面を製作するための基礎データの収集、光をスキャニングする実験などをまとめ昭和56年(1981)9月2日に米国の雑誌Review
of Scientific Instrumentsに投稿した。この論文は同誌の11月号[3]に掲載された。
2.4研究成果の評価
論文発表後、企業から見学もあったが、実用化したいという情報は入って来なかった。小玉の英文の論文発表から約1年後、3MのAlan J.
Herbertが同様の論文[4]を
発表した。この論文を見た小玉はHerbertに手紙を書き「だれも評価してくれない」と追記したところ、Herbertも「3Mでも評価してくれない」
という返事をよこした。小玉は「3Mでもか。自分の研究はセンスのないものだったのか。」と自信をなくした。工業的応用は企業の判断にまかせるしかない。
名古屋市工業研究所としての使命はこの段階までであると判断した。
2.5 小玉の転身
次の研究課題として初心のロマン・・・3次元立体映像の研究にとりかかった。「クリプトンガスの充満する空間に2本の赤外線ビームを交差させる
と、その交差点のクリプトンを励起して光らせることが出来る」という理論的な結果を得た。しかし光源から赤外線のみを取り出すことが出来ず(フィルタ−を
使用しても可視光が赤外線に混じってしまい赤外線ビームが可視となる)、実験はうまくいかなかった。昭和56年秋から昭和58年まで悪戦苦闘したが失敗の
連続であった。
小玉の研究のいきづまりを見ていた研究所長から「成果の出る研究をしろ」と風力発電の研究を命じられた。研究所長は市議会から「工業研究所で成果が出な
い。」と突き上げられていたらしい。それで風力発電の研究をするように部下に命じたのである。しかし小玉には風力発電の研究方針に納得できず、研究への参
加を断った。この事件がきっかけで「上司を選べる職業を」と考え、昭和58年4月から弁理士試験の勉強を始めた。翌昭和59年受験、一次試験に合格した。
二次試験の論文は自分では出来たと思った。しかし日に日に不安が襲ってきた。
当時、名古屋地方に弁理士試験のための受験講座がなかった。このため岡田特許事務所(現在の岡田・小玉国際特許事務所)所長は、若い弁理士受験生に声を
かけて勉強会を企画し、開校案内を弁理士試験会場で配布していた。不安な日々を過ごしていた小玉はこの案内のことを思い出し、来年の再受験のことを考え、
岡田所長を訪ねた。最初の勉強会に参加したのである。しかし11月の結果発表は、みごとに合格していた。この一回の勉強会への参加が岡田所長との出会いで
あった。
昭和60年4月、名古屋市工業研究所を退職した小玉は岡田特許事務所に入所した。これからは米国特許も重要な位置を占めるようになる。こう判断した岡田所長は小玉を昭和61年5月から62年8月まで米国ワシントンに特許留学させた。
特許留学を終了し、帰国草々の昭和62年秋、日本の商社が3Dシステムズの3次元立体造形に関する日本特許(当時は公開中)のライセンスについて岡田特許事務所に相談に来た。イニシャルフィー(Initial
Fee )として億円単位を支払う価値があるかどうかという相談であった。小玉も同席して技術説明を聞いていると、
「おや、これは私がむかしやった発明とおなじや!」
と思わず口から出た。忘れていた自分の特許出願を特許情報検索システム(パトリス)で至急調査するよう依頼する。小玉は名古屋工業研究所を退職するにあた
り、書類、実験設備、実験記録、自宅にあった書類などすべて破棄していたので、光造形に関する書類、むろん特許出願書類も残っていなかった。パトリスの調
査結果は、特許出願から7年という審査請求期限を半年経過していた。米国留学中に審査請求期限が来ていたのである。この事件で小玉は
「自分自身が特許管理の重要さを身をもって経験した。」
と感想を述べた。
2.6 小玉の受賞
小玉は平成7年(1995)5月25日、英国のランク財団(The Rank Prize Funds : 添付資料参照)からオプトエレクトロニクスに貢献したということで受賞した。賞金は15,000ポンドであり、事前に夫婦二人分の旅費などが送金されてきた。小玉の光造形に関する業績が、外国で認められたのである。
光造形法で世界的に事業展開している米国の起業家Dr. C.W.Hull(米国の3Dシステムズ社の社長)も受賞する。賞金は10,000ポンドである。
受賞の理由として財団から送られてきた招待状に
In recognition of work Dr. Kodama's work for devising and demonstrating
opt-e lectronics methods which permit solid objects to be constructed
from digital d ata and Dr. Hull's contribution in developing, commercialising
and naming one such method "stereolithography".
と記載されていた。
3.Herbertの研究
3M社ではAlan J. Herbertが小玉より2年ほど早い1978年ごろから光造形の研究を始めた。(私信による)しかしこの研究成果の事業化が不透明である等の理由によ
り、3Mはそれ以上研究開発を進めず、特許出願も見送られた。このためHerbertは1982年に論文[4]を書いたのである。
Herbertは数年前まで3Dシステムズのコンサルタントとして研究経験を生かしている。3Mの研究職から特許リエゾンマンに転身したHerbertは
“Please be kind and gentle to new ideas.”
というコメントを送ってきた。
4.丸谷の研究開発
4.1発明の経緯
昭和58年(1983)、大阪府立工業技術研究所電子部光計測部門に二十数人の研究員がいた。研究所は「測るだけなのか」と新任のトップに言われ研究員の丸谷は憤慨していた。それゆえ「何か作ってやろう」と心の底で思っていた。
ある日、いつも寄り道する「なんば」の飲み屋で光硬化性樹脂を扱っている室町化学の人と飲み友達になった。夜道を帰る途中、「何か作ってやろう」という
潜在意識、研究室に紫外線レーザーがあること、さっきまで飲み友達が話していた樹脂の話が脳裏で一体となり、「これで立体物が作れる!」とひらめいた。
試作後に特許出願の準備をした。研究所には特許出願予算枠があり、研究所全体で年10件程度は可能であった。所内の審査を通し、昭和59年5月23日付けで特許出願[5]された。
4.2研究開発
研究費ゼロで進めた。実験を繰り返した。紫外線ビームを樹脂に照射するとほとんど樹脂表面で吸収されてしまうことが分かり、特許出願のような2ビーム方
式は現行の樹脂で実現性がないことが判明する。1ビームで表面から順次固化して立体物を作ることにする。手の握りこぶしぐらいの円筒状成形物を作り、この
結果と基礎実験結果を昭和59年(1984年)11月神戸大学で開催された電気関係学会関西支部連合大会で研究所の仲井孝と共同発表した。表題は 「G10-20
レーザによる立体形状の創成」である。会場から同じような研究を名古屋でもしているというコメントがあり、丸谷はこのとき初めて他者も研究していたことを
知った。
このままでは研究の予算もないので、これで終了である。しかし丸谷は研究成果を埋もれさせたくなかった。何とか実用化してものにしたいという強い意志を
持っていた。「光造形研究会」という研究会を作り研究予算を集め研究成果の実用化を計ることにした。予算がない場合、公的研究所、大学の研究室がする一つ
の戦略を採用したのである。応募を募ったところ東芝、松下など約30社から反応があったが、いずれも担当の技術部長レベルまで了承するがそれ以上の了承を
得ることが出来ず、結局研究会に参加したのは以下の5社であった。
- ブリジストン
- ミノルタ
- 新東工業(名古屋)
- 藤村木型
- 三光合成(樹脂メーカー)
研究期間は昭和60年6月から昭和62年3月の2年間の限定、予算は各社20万円/年(合計100万円/年)であった。研究会発足時、丸谷は電子
部電子工業課の研究員であったが、光応用研究室室長という肩書きを取得し、研究所から認められた研究をすることになったのである。
パソコンで3次元CADソフトをベーシックで作り、このソフトウエアで装置を動かして三次元物体を作るというものであった。この物体は主に型の原形として、また少量生産品として製品にすることも開発目的であった。
2年間の研究期間が終了したので、この研究会は解散した。
4.3製品化
3Dシステムズが製品化したという情報が入ったので三菱商事、住友商事、三井物産から共同で研究開発しないかと丸谷に接触があった。これら商社のうち、
三菱商事だけが研究の道理をよく知っている理工系の担当者がいた。キーとなるソフトウエア技術者の情報も三菱商事が一番優れていた。このような事情で昭和
62年から平成元年までの2年間、共同研究契約を三菱商事と締結した。丸谷の特許出願も通常実施権のライセンス契約対象となっていた。共同研究は予算の面
で2桁も研究会より上であった。億単位の開発である。三次元CADソフトは高速のワークステーションベースで開発することになった。具体的な装置の製作、
3次元CADソフトウエアの開発は三菱商事が手配した。三菱商事の情報網は研究所の及ぶところではなく装置やソフトをどこでどのように開発するか、また
キーとなる技術者の所在を把握していた。ソフト開発者は三菱商事のソフトウエア情報網から最高の人材を抽出した。しかしソフトハウスではうまく行かない面
もあったので、ソフトウエア技術者を三菱商事の社員に中途採用するという荒技までして開発を加速した。
丸谷は今までのノウハウを提供した。一番効果が大きかったのは使用する樹脂に関する情報であった。旭電化の樹脂が硬化後に反りのないすぐれたものであったのである。
共同研究中に、丸谷が出願していた発明に対し特許庁から拒絶理由通知が来た。名古屋の小玉の論文がその引例であったが、拒絶理由を克服して公告にした。
しかし個人(覆面の異議申立て)、名古屋市工業技術振興会、3Dシステムズの三者から特許異議申立てがなされた。三菱商事の資金的バックアップで異議を克
服し、平成3年4月に特許異議の申立は理由がないという特許庁の決定を得ている。なお丸谷を発明者とする発明が三菱商事から10件程出願されている。
4.4復帰
この共同研究が終了し、三菱商事が商品化した後、丸谷は元の研究、外観検査のソフトウエア研究に復帰している。(平成1年から平成3年)研究所と
して外観検査ソフトウエアのノウハウを大阪府下の中小企業に指導、セミナーを開催している。このころ研究所の移転が具体化し、その企画にも参画している。
大阪府立工業技術研究所は昭和62年11月に大阪府立産業技術総合研究所と名称変更された。移転計画は平成8年4月に実行され、82000平方メートルの
敷地を有する和泉市あゆみ野に新築移転した。
4.5転職
丸谷は平成3年3月に研究所を退職し、4月から大阪産業大学工学部情報システム工学科の教授として多忙な日々を送っている。平成8年から光造形の
研究を学生と再開している。光源として紫外線レーザーではなく紫外線ランプを使っている。設備費が安いというのがその理由である。最近パソコンの3次元
CADソフトウエアの提供を受けた。外国のソフトであるが、非常に上質で日本の同種のソフトとの性能の差が歴然としているという。
丸谷教授に「特許マインドはどこで得たのですか」と質問したところ「工学部出身だから特許知識、特許出願など当然でしょう。大学で特許に関する講義を受けたことはありませんが」という回答であった。
5.Hullの光造形事業化
「創始者であるハル(Hull)が光造形のアイデアを発想したのは1980年にUltra Violet Products社(UVP)に入社してまもなくであった」と3Dシステムズの広報誌the
Edge[6]に記載されている。UVPは工業用の光硬化性樹脂を硬化するための紫外線発光装置を製造している。Hullは光造形法の装置を発想する環境に居合わせたのである。
Hullは試行錯誤して光造形を実証し米国特許を1984年8月8日に出願(USP4,575 ,330)、日本には昭和60年(1985)に出願[7]したが、UVP社は経営上の理由により事業化しなかった。1986年にUVPの取締役のレイモンドフリーとパートナーを組み3DSystems社を設立し、現在に至っている。
6.光造形技術の課題
光造形技術の課題は、装置の値段が高いこと(数百万から8000万円)、樹脂の硬化による収縮である程度の大きさで精度の要求される場面に適応できないことなどである。マイクロマシン関連では紫外線レーザーを使って数ミクロンの精度まで加工が可能になっている。
事業的課題として日本で基本特許を保有する企業がなく、小さな市場に多数の企業が参入していることである。
しかしこれらの課題は、パソコン用の安価(現在のレーザープリンター程度)な3次元出力装置の開発、ソフトウエアによりあらかじめ樹脂の収縮を考慮した制御、業界の再編成などにより将来解決されるであろうと推定される。
この光造形(ラピッドプロトタイピング)の技術は、樹脂漕での造形の他に
- 厚さ0.1mmの樹脂パウダー層に紫外線レーザーを照射し、積層する方法
- 粉末金属の薄い層にレーザー光を照射して金属を溶かし積層し、金属を直接造形さケる方法(テキサス大学のベンチャー企業 DTM の方法)
- 樹脂を糸状に抽出して、紫外線を照射して順次硬化させる方法(粘土で瀬戸物を作る様な方法)
- 樹脂の代わりに、紙を積層して造形する方法 などがある。
7.特許
一つの事例であったが、パイオニア発明・特許の生まれる背景並びに発明者の心理が、明らかになった。「自己の研究・技術分野ばかりでなく他人の研究・技術分野にも視野を広げる。」ことが、パイオニア発明をするための一つの方法である。
特許については
特許管理の重要性
特許出願書類の質のよさ
の教訓が得られる。
あとがき
Hullには連絡が取れず文献[6]のみによる情報である。なお特許出願に関しては[8]などの文献を参考にするとよい。
参考文献
[1] 特願昭55−48210「立体図形作成装置」 ]
[2] 電子通信学会論文誌 Vol.J64-C No.4 (Section J) April 1981
pp237-pp241
[3] Review of Scientific Instruments Vol.52, No.11,
November 1981 pp1770-pp1773
[4] Journal of Applled photographic Engineering Vol.8,
No.4 August 1982pp185-pp188
[5] 特願昭59−105355「光学的造形法」
[6] the Edge Vol.V,No.1 (1995) 日本語の広報誌 pp10-pp11
[7] 特願昭60−173347「三次元の物体を作成する方法と装置」
[8] 情報処理学会誌 Vol.34 No.8 Aug. 1993 pp973-pp982
参考資料
THE RANK PRIZE FUNDS
The Rank Prize Funds were established in 1972 by the late
Lord Rank to encourage a greater understanding of the science of nutrition
and opto-electronics which he believed would be of special interest to
mankind. The two area relate to the fields into which Lord Rank's career
let him - the flour milling industry (Rank Hovis McDougall PLC) and the
film industry (The Rank Organaisation PLC) although the Funds are entirely
separate from these companies. Animal Husbandry was excluded from the
objects since, during his lifetime, Lord Rank made substantial funds available
for work in this field. The funds were provided by The Rank Foundation
with donations totalling 2,500,000 ponds which were divided equally between
the two Funds. (ランク財団の招待状説明より)
(C) 1997 KITAGUCHI HIDEMI
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